終わりの日のキリストの言葉

救い主はすでに「白い雲」に乗って戻って来た
イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。

終わりの日の働きとは、すべての人をその性質に応じて区分し、神の経営(救いの)計画を締めくくることである。時が近づき、神の日が来たからである。神の国に入る人すべて、すなわち神に最後の最後まで忠実な人すべてを、神は神自身の時代に連れて行く。しかし、神自身の時代が来る前は、神の働きは人間の行いを観察したり、人間の生活について調べたりすることではなく、人間の不服従を裁くことである。神の玉座の前に来る人すべてを、神は清めなければならないからである。今日まで神の足跡に従ってきた人はすべて神の玉座の前に来る人であり、これゆえに、最終段階の神の働きを受け入れる人の一人ひとりは神の清めの対象である。言い換えれば、最終段階における神の働きを受け入れる人は誰もが、神の裁きの対象なのである。

滅びる、とは何を意味するであろうか。言葉通りに解釈すれば、消滅するということである。しかし、どのようにして消滅するであろうか。一体誰が町全体を滅びさせることができようか。当然、そのようなことは人間には不可能である。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐに、その旨を理解した。ニネベの人々は、その宣告が神から伝えられたものであること、神が業を行うつもりであること、自分達の邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分達に対するもので、程なくしてニネベの町も自分達も滅ぼされるであろうことを理解した。ヤーウェ神の警告に対し、ニネベの人々はどのように行動したであろうか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々の反応が詳細に記載されている。聖句には、「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。

(ヨナ書1:1-2)主の言葉がアミッタイの子ヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、これに向かって呼ばわれ。彼らの悪がわたしの前に上ってきたからである」。 (ヨナ書3章)時に主の言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナは主の言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。

もし真の心で求める全ての人たちが現在なされている働きの認識を得て、完全に確信することができるように福音を広めることを願うなら、あなたはそれぞれの段階における働きの内情、本質、意義をはっきりと理解しなければならない。あなたの話を聞くことで、人々がヤーウェの働きとイエスの働きを理解することができ、さらに今日なされているすべての働きや三段階の働きの関係や違いなども理解できるようにしなさい。人々が話しを聞いた後、三段階のどれも他の段階を妨害しないが、それら全ては同じ霊による働きであり、彼らは異なる時代に働きがなされ、その内容も異なり、語られる言葉も異なるが、働きの原則はひとつで同じものであることを理解できるようにしなさい。これらは人が理解すべき最も大きなビジョンである。

神はその職分を全うするためにやって来るのである。神が肉となるのは、働きのひとつの段階を遂行し、新しい時代を開くためだけである。今や神の国の時代が到来し、神の国への訓練が始まった。この段階の働きは、人間の働きでも人間をある程度まで完全にするための働きでもない。それは神の働きの一部を完了するためのものである。神の働きは人間の働きではなく、また地上を去る前に人間をある程度まで完全にするためのものでもない。それは神の職分を完全に全うし、神が行なうべき働きを終えることである。すなわち、地上における神の働きのための適切な手はずを整え、それゆえ神が栄光を得ることである。

肉となった神は、その働きを自ら遂行しつつ、従ってくる人たちだけに自身を現すのであり、すべての創造物に現すのではない。神は人に彼の姿を見せるためではなく、ある働きの段階を完成させるためにだけ肉となった。しかし、神の働きは神自身が行なわねばならず、よって神が肉体をもってそうすることが必要なのである。

神は初めであり終わりである。神の働きを始動させるのは神自身であるので、前の時代を終わらせるのも神でなければならない。それは神がサタンを負かし、世界を征服する証拠である。神が人々のもとで働くときはいつも、新しい戦いの始まりである。新しい働きの始まりがなくては、当然古い働きの終結もないということである。古い働きの終わりがないということは、サタンとの戦いの終わりがまだ来ていないという証拠である。神自身が人のもとに来て新しい働きを実践して初めて、人は完全にサタンの支配から自由になり、新しいいのち、新しい始まりを獲得することができる。そうでなければ人は永遠に古い時代に生き、永遠にサタンの古い影響下で生きることになる。

はじめ、神は安息の中にいた。その時、地上には人類も他の何物もなく、神は何も働きをしなかった。人類が存在するようになり、さらに人類が堕落してしまった後、神ははじめて経営(救い)の働きに取りかかった。その時から神はもう安息せず、人類の間で忙しく働き始めた。人類が堕落したため神は安息を失い、また大天使が裏切ったため神は安息を失った。もしサタンを打ち負かさず、堕落した人類を救わなければ、神は二度と再び安息に入ることができない。

聖書を理解し、歴史を理解するが、聖霊が今日何をしているかを理解しない──これは間違っている。あなたは歴史を学ぶことはよくできたし、実にすばらしい成果を上げた。しかし、聖霊が今日している働きについては、何も理解していない。これは愚かなことではないか。人々があなたに「神は今、何をしているのですか。あなたたちは今日、何に入るべきなのですか。あなたのいのちの探究はどうはかどっていますか。あなたは神の御心を理解しているのですか」と尋ねても、あなたには答えることができないであろう。それで、あなたは何を知っているのか。あなたは、わたしは肉に背を向け、自分を知らなければいけないことを知っているだけですと言うであろう。

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